働くということ

電通の女性新入社員がパワハラ過重労働によって自殺に追い込まれたという悲惨な事件は日本の企業における労働環境の劣悪さを改めて世界に露呈するものとなったが、一方で働く側にとっては仕事とどう向き合うべきか、「働くということ」について考えさせられるものとなっている。電通といえば昔から給与や諸手当の良さと仕事の自由度はあるが仕事は厳しく社内競争も激しく、社員が精神的に追い込まれたり、労務上のトラブルも多いという噂がたえないところだ。しかしテレビ新聞、マスコミの広告を一手に握り、政治家、スポンサー企業、当のマスコミからその有力者の子息をコネ入社させており、その影響力を持って、これまでも様々なスキャンダルが表面化するのを押さえ込んできたと噂されてきた企業である。今回はマスコミもかつてなくこの事件を大々的に報道し、厚労省も予想以上に早く電通を労働基準法違反で書類送検、さらに違法労働の実態解明に力を入れている。もちろん人の命の問題である、マスコミも厚労省もこの際電通の事件の違法性を真剣かつ徹底的に暴いてもらわないと困るが、それだけ今回の事件は社会的関心を呼んでいるということだろう。となればこれを奇貨として世界的にも劣悪と言われる長時間労働の実態、サービス残業といった日本の悪しき労働環境の改善に向けて政府、企業が動きすことを期待したいところだ。

 

しかしその一方で働く側もこの事件を機会に自らの精神の安定と生命を守るためにもう一度「働くということ」を真剣に考えた方がいいのではないかとも思うのだ。いま企業における若年労働者の健康問題、特に鬱病など精神疾患の増大が深刻化している。かつては労働者の権利を守るという立場での労働組合があり、賃金や労働条件などをめぐって会社と交渉するようなシステムがなんとか機能していた。しかしいまや全労働人口の約40%が非正規雇用者であり、組合がないかあっても有名無実。加えて「自己責任」ということが声高に叫ばれだしたころから一部の有能なあるいは恵まれた人にとっては利益となることはあっても多くの労働者にとって改悪となることばかりの改革が進められているようにみえる。成果主義はその典型で働いても低賃金で生活ができないという状況や限界を超える仕事量を押し付けられるといったことが当たり前のようになっている。電通の女子社員の悲劇もこのようななかでの過度の自己責任意識と孤立化という状況で起こったといえるだろう。

 

少し前だが、朝日新聞の投書欄にベトナムからの留学生のこんな投書が載っていた。「来日当初は街の発展ぶりや生活の豊かさをみてさぞかし日本人は幸せだと感じているのだろうと思っていた。しかし10カ月が過ぎた今、実はそうではないように感じる。日本は自殺率が高い国の一つだという。電車の中では寝不足で疲れた顔をよく見る。日本人はあまり笑わず、いつも何か心配事があるような顔をしている。日本人は勤勉で一生懸命働いていまの日本を建設した。でも会社や組織への貢献ばかりを考え自分の成果を自分が享受すること忘れていると思う。ベトナムはまだ貧しい国だが、困難でも楽観的に暮し、めったに自殺を考えない。日本人は何のために頑張っているのか。幸福とは何なのか、日本人自身で答えを探した方がいいと思う」。政府はいま「一億総活躍社会」とか「働き方改革」とかの旗を挙げて日本の労働市場、労働環境の改善に取り組む姿勢を示している。しかしその中身は労働者ファーストのものとは思えないし、この21歳のベトナム留学生の問いへの答えがでるとも思えない。となると仕事を離れた隠居老人が言うのもなんだが、もはや自己防衛しか今の日本で生きてゆく道はないのかもしれない。企業の犠牲になる前に「働くということを」を真剣に考えた方がいいような気がする。