vol35.日曜画家の嘆き

もう何年も前だが霞が関周辺をスケッチしようと出かけたことがある。場所が場所である。サリン事件もあったしそうでなくても官庁街で見回りの警察官が多い。こちらは画帳やイーゼル、簡易椅子などを詰め込んだナップザックをかついで、どこに座り込んでも大丈夫なような汚い恰好をしている。不審者と思もわれても不思議はない。呼び止められて荷物検査などやられるのは気分悪い。鉛筆削りに使うカッターナイフも入れてるし、などと考えて出かけたことがあった。結果的には取り越し苦労だったのだが、あるビルの前で座り込んで描き始めようとしたらそのビルの会社の人か、ここは敷地内だからあっち行けみたいなこと言われて傷ついたことがあった。

こんなことを思い出したのもいまやこんな日曜画家の取り越し苦労や人の目を気にする心理が笑い話では済まない時代になってきたからだ。街中のあらゆるところに監視カメラが設置され、電車に乗れば常に不審者や不審物を見つけたら通報するよう呼びかけている。この時代他人と目を合わせることがないし、隣りの人と言葉を交わすこともないので、相手が何を思っているか分からない。人は見かけで判断するし判断される。思いもよらぬ形で通報されるということがないとは言えない。花見で望遠鏡やメモ用紙を持っている人は怪しまれるとなれば、もはや絵描きに限らない。見慣れない身なり風体の人や非日常的な物を持っている人は皆不審者と思われる可能性があるということである。なにもやましいことはないのだから堂々としていればいいものだが、人は制服に弱い。痛くない腹を探られて平静でいられるか心配になる。

多発するテロ事件や誘拐とか凶悪犯罪のニュースが連日流されているのを見て、社会の安全と人々の安心を確保するためには犯罪の未然防止のための監視と取り締まりの強化が必要だと思う人もいるだろう。だけどいったいどこまでいったらその安全安心が得られるのか、また誰にその管理維持を依頼するのかをしっかりと考えておいた方がいい。日本の監視カメラの設置台数は5年前で300万台とあった。監視カメラ先進国の英国ではロンドンを一日歩くと300回撮影されるとどこかで読んだことがあったが、いまや日本も同じような状況ではないか。なんの防衛手段もない個人の最後のよりどころが「プライバシー権」だとすれば、それをも放棄するあるいは侵害される形での安全安心というのは本来自己矛盾であるのだが、現代社会では個人情報を晒さなければ生活できない。電車やバスの自動改札、車のETC、ATM、携帯電話、NSNなどなど。これらのシステムは利用する特定個人と結びついていなければ成り立たない。ということは常に特定個人の場所、時間、移動状況、通話通信などのデータがどこかで管理され蓄積されているということである。

となると最大の問題は誰に安全安心を依頼するのかである。当然取り締まりは当局ということだが、ここは民間のセコムと違って往々にして依頼者の言うことを聞かず秘密裏に独自判断で動き出すことがあることは歴史が教えてくれている。もちろんいまは監視目的ではないが、かのスノーデン氏の警告によれば日本にもすでに携帯電話の会話情報をすべて把握できる監視ソフト・システムがあるという。簡単に監視目的に使えるということである。この動きが止められないとしたら、いま必要なのは変な装備で花見に行かなという自己防衛ではなく、監視に悪用されないよう厳しく当局を監視することである。メディアの役割は大きい。