Vol.4  「アリVS猪木戦その他裏話」

 海城メディア会HPページ寄稿も今回であっという間に四回目。

 今回は世界中の注目を浴びたアリVS猪木戦等の裏話にふれてみたい。

 そもそもの発端は今を去る約四十年前に、小生がWBAヘビー級公式戦としてアリVSフォスター戦を武道館で興業したことにはじまる。これは世界ボクシング史上、正に初めての極東における興業であった。       

 この興業がきっかけとなって四年後にアリVS猪木戦が実現の運びとなる。マネージャーも弁護士も同じ人物なので、猪木サイドの要請にもとづき、種々コーデネーションを手助けすることになる。

 そしてその後にはウガンダ内戦により実現不能に終わったが、当時ウガンダ大統領だったブラックヒトラー、別名人食いアミンことアミンVS猪木、アリレフリー、小生プロモーターという希代の怪(快)企画の実行計画につらなることになった。

 アリ日本招聘は彼がローマオリンピックにおけるライトヘビー級金メダリストとして衝撃的デビューを飾ったとき小生がそれに電撃的ショックを受けて以来、到底、実現不能といわれながら約十数年かけて、日米両国におけるマフィア、ヤクザ等のあらゆる妨害、そして困難をきわめた資金調達問題をクリアして、やっと実現のはこびとなった。当時は電通も今ほど力がなくて、せいぜいTVスポンサーを見つけるのが精一杯という状況だった。

 このプロモーションにヒントを得て猪木君がアリVS猪木戦の実現に向けて精力をかたむけることになる。彼の根本的動機はヘビー級王者と真剣勝負することで、あまりにも低かったプロレスに対する国際的評価をたかめることにあった。真剣勝負であったためにルールにがんじがらめされ世紀の凡戦と酷評されたが、猪木君はまさにあの試合にすべてを賭けたのだ。

 その直後、アミンVS猪木、アリレフリー、小生プロモーターという希代の怪(快)企画が発表され、世界中がハチの巣をつついた騒ぎとなった。アリと同じ回教徒でかつヘビー級東アフリカチャンピオンだったアミンも、この企画に大変興奮し実現にむけて積極的に協力したが、内戦状況が悪化し実現のはこびとはならなかった。

 当時人気絶頂だったマンガ家の赤塚不二夫君が発表と同時にウガンダサッカー場のリングサイドを予約するほど熱狂し、この試合が実現できたらマンガ家のやるべき事はもうなくなるのでただちに引退すると公式に表明したほどの熱狂状態だった。

 小生もすべてをこの企画に賭けていたので、実現不能となった段階で茫然自失に近い精神状態に陥り、一年間ぐらいなにもする意欲を失ったくらいである。


康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。