【NEWS】虚人康芳夫映画デビュー

タイトル 「渇き」

原作 はてしなき「渇き」(宝島社)版文庫(上下)

監督 中島哲也

出演者 役所広司 国村隼 妻夫木聡 オダギリジョー 中谷美紀等

制作配給 GAGA

封切 7月4日から、全国東映系

   六本木ヒルズ TOHOシネマでも上映

 

このたび、映画俳優として、デビューすることになりました。

今まで、大島渚、若松孝二、大学で同級生だった久世光彦等に再三映画、TVに出演を要請されましたが、なんとなくタイミングを外して、今日にいたりました。

今回、中島哲也監督より要請があり出演を決心しました。監督は若手トップクラスとされる俊英です。

代表作は「下妻物語」「きらわれ松子の一生」「告白」(日本アカデミー賞)。

 

今回の役は、関東全域を支配する暴力組織の黒幕で元刑事の役所広司の娘「小松奈菜(NTTDocomo等のCM出演)新人」と関係をむすび、役所に射殺される役。

かなり重要な役です。

 

虚人康芳夫TV出演

TBS新番組 桜井、有吉「アブナイ夜会」

放送日時 5月1日 22:00~22:54

ゲスト出演

場合によっては出演日変更あり。

その際は、改めてお知らせします。


康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。

Vol.6 「ネッシー国際探検隊」裏話

 早いものでこの海原メディア会ブログの掲載もいよいよ最終回をむかえる。

 今回はネッシー国際探検隊(石原慎太郎総隊長、康芳夫全権プロデューサー)の裏話をオープンにする。小生が石原元都知事と知り合ったのは東大在学中の頃だから、早いものでざっと五十数年前のことだ。彼が芥川賞を例の「太陽の季節」で受賞してから数年後である。小生が東大五月祭企画委員長を務め、委員会企画として「新しい芸術の可能性」と銘打った鳴物入りの座談会を開いて、彼と岡本太郎、武満徹、谷川俊太郎等を交え白熱の委員会企画を催したのだ。

 この縁で彼と知り合い以後親交を深めることになる。小生が興業の世界に入ったのも、彼の紹介で当時大女流人気作家だった有吉佐和子に会い、彼女の夫だった神彰につながったからだ。

 彼とはその後、いろいろな面で意気投合し、小生がムハマッドアリを呼んでしばらく後、彼を総隊長、小生が全権プロデューサーという鳴り物入りの構成で、ネッシー国際探検隊を組織し、ネス湖に乗り込んだのだ。日本で記者会見して、日本中のマスコミが賛否両論に沸き返ったが、それ以上に世界中のマスコミがそれこそハチの巣をつついた騒ぎになった。

 当時彼は三十数歳。現役の国会議員でもあったので、外国のメディアが問題にしたのはこともあろうに日本を代表する若手政治家が先頭にたって、イギリス人にとってホーリイアニマル「神聖なる未知の動物」を金の力にまかせて生け捕りにやってくるとはとんでもない話だということだった。大げさに言えば天皇陵を毛唐が掘り出しにくるようなことだ。これがイギリスを代表するロンドンタイムス、BBCTVの論調だった。

 さすがの彼もこの事態に頭をかかえこんでしまい、ロンドンの記者会見の後、早々に日本に引き揚げることになる。一部のマスコミはペテン師プロデューサー康芳夫にオモチャにされた石原慎太郎という書き方をして囃し立てた。

 その後、都知事選に立候補して、当時の美濃部知事に敗れることとになったが、彼はその後会うたびに冗談半分ながら君のおかげで都知事選に敗けたといってぼやいていた。

 本来は総隊長SF作家小松左京に内定していて、小松左京ならなんら問題はなかったのだが、彼が俺がやると言ってしゃしゃり出てきたから、問題は大きくなったわけだ。このあたりがいかにも石原慎太郎らしいというところで、今もまったくかわっていない。

 小生は、いつも貴方は政治家には向いていないから文学の世界に戻ったほうがいいとアドバイスをしていたが、それが彼の癇に障り、しばらくコミュニケーションが途絶えた。いい意味でも悪い意味でも彼のストレートな人間性が彼の持ち味であろう。

 先年久しぶりにネス湖を訪れ、いろいろな感慨に耽ったが、小生のプロモートしたイベントとしては、極めて異色のものであり、我が青春の忘れがたい思い出であることは間違いない。

 最後に長い間、小生のブログに付き合って頂き、ありがとう。今後ともよろしく。


康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。


Vol.5 1984年ロサンゼルスオリンピック放映権の内幕

 海原メディア会ブログも早いもので五回目となる。今回は東京オリンピック開催が決定し、主催プロデューサーである都知事がスキャンダルまみれで辞任するというおまけがついたこともあって、小生が深く関与した1984年ロサンゼルスオリンピック放映権をめぐるスリリングな内幕を暴露する。

 日本サイドの基本的対応は例によって電通が仲介し、NHK、民放が共同で放映権を取得するパターンであった。この対応に不満を抱き一打逆転を狙っていたのが、他ならぬTV界の怪人物、当時テレビ朝日専務だった三浦甲子二である。彼はモスクワオリンピックの独占契約を成立させたが、ご存じの通り様々の国際的事情で実現しなかった。これのリベンジを狙って、1984年ロサンゼルスオリンピックの独占契約を密かに狙っていたのだ。

 しかしながら抜け駆け交渉はしないという紳士協定が彼の前に立ちはだかった。小生も又当時興業界の怪人物といったこともあって、彼とはウマが合い仕事上も、その他彼の私生活における女性問題の処理等も含めて深い因縁があった。タイミングを計ってロサンゼルスオリンピック委員会との極秘交渉を持ちかけると渡りに舟とばかりに話に乗っかってきた。小生の顧問弁護士がロサンゼルスオリンピック組織委員長の弁護士ということもあり、この裏交渉には絶対の自信を持っていたのだ。三浦専務としては紳士協定によるしばりもあり、テレビ朝日の名前はギリギリまで伏せておくことを条件に小生に委任状を渡すことになる。ロサンゼルスオリンピック組織委員会は小生の顧問弁護士を通じての交渉に直ちに応じてきた。ピター・ユベロス委員長は名うてのやり手であり、日本サイドの紳士協定なんてものは初めから問題にしなかったのだ。

 その後ロサンゼルスオリンピックの大成功により、大リーグのコミッショナーに就任している。ちなみに小生の弁護士ロバート・アラムは、モハメット・アリの弁護士として、例のアリ徴兵拒否裁判で勝訴し一躍世界的に名をしられたやり手弁護士。現駐日アメリカ大使の幼少時からケネディ家の弁護士も務めている。現在は世界的ボクシングプロモーター。

 然しながら結果的には小生の極秘交渉がAP通信によってスクープされ日本サイドは蜂の巣をつついた騒ぎとなり、テレビ朝日とメディア連合軍が和解せざるを得なくなり、小生は引く形で一件落着した。然し、三浦からは委任状にもとづき、銀座の高級クラブで十数年は飲み続けるぐらいの経費はちゃっかりいただいた。以上がロサンゼルスオリンピック放映権を巡る裏話のすべてである。


康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。

Vol.4  「アリVS猪木戦その他裏話」

 海城メディア会HPページ寄稿も今回であっという間に四回目。

 今回は世界中の注目を浴びたアリVS猪木戦等の裏話にふれてみたい。

 そもそもの発端は今を去る約四十年前に、小生がWBAヘビー級公式戦としてアリVSフォスター戦を武道館で興業したことにはじまる。これは世界ボクシング史上、正に初めての極東における興業であった。       

 この興業がきっかけとなって四年後にアリVS猪木戦が実現の運びとなる。マネージャーも弁護士も同じ人物なので、猪木サイドの要請にもとづき、種々コーデネーションを手助けすることになる。

 そしてその後にはウガンダ内戦により実現不能に終わったが、当時ウガンダ大統領だったブラックヒトラー、別名人食いアミンことアミンVS猪木、アリレフリー、小生プロモーターという希代の怪(快)企画の実行計画につらなることになった。

 アリ日本招聘は彼がローマオリンピックにおけるライトヘビー級金メダリストとして衝撃的デビューを飾ったとき小生がそれに電撃的ショックを受けて以来、到底、実現不能といわれながら約十数年かけて、日米両国におけるマフィア、ヤクザ等のあらゆる妨害、そして困難をきわめた資金調達問題をクリアして、やっと実現のはこびとなった。当時は電通も今ほど力がなくて、せいぜいTVスポンサーを見つけるのが精一杯という状況だった。

 このプロモーションにヒントを得て猪木君がアリVS猪木戦の実現に向けて精力をかたむけることになる。彼の根本的動機はヘビー級王者と真剣勝負することで、あまりにも低かったプロレスに対する国際的評価をたかめることにあった。真剣勝負であったためにルールにがんじがらめされ世紀の凡戦と酷評されたが、猪木君はまさにあの試合にすべてを賭けたのだ。

 その直後、アミンVS猪木、アリレフリー、小生プロモーターという希代の怪(快)企画が発表され、世界中がハチの巣をつついた騒ぎとなった。アリと同じ回教徒でかつヘビー級東アフリカチャンピオンだったアミンも、この企画に大変興奮し実現にむけて積極的に協力したが、内戦状況が悪化し実現のはこびとはならなかった。

 当時人気絶頂だったマンガ家の赤塚不二夫君が発表と同時にウガンダサッカー場のリングサイドを予約するほど熱狂し、この試合が実現できたらマンガ家のやるべき事はもうなくなるのでただちに引退すると公式に表明したほどの熱狂状態だった。

 小生もすべてをこの企画に賭けていたので、実現不能となった段階で茫然自失に近い精神状態に陥り、一年間ぐらいなにもする意欲を失ったくらいである。


康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。

Vol. 3 「オリバー君大騒動」顛末記

 海原メディア会ブログとの付き合いも、あっという間に三ヶ月が経過した。

 今日は徳光和夫君との最初の仕事となった今は去ること四十年前の「オリバー君」事件の内幕の一切をここで暴露することにする。当時、大人気テレビ番組だった日本テレビ「木曜スペシャル」の特番として企画されたものであるが、小生はプロデューサーとして番組制作に関わり合うことになった。

 そもそもは、小生のニューヨークの弁護士の友人が、コンゴ上流で奇怪な生物を発見し、保護しているという情報を持ちこんできた。彼の情報によるとどうも生物の正体は人間と類人猿の「アイノコ」らしいという。早速ビデオを送らせて見てみると、確かに、人間ともチンパンジーともつかない奇怪な表情をしているではないか。小生は直観的に人間とチンパンジーの「アイノコ」と判断した。コンゴ上流では人間とチンパンジーが共棲し、性的行為は日常的に行われているという。然も、専門家の鑑定によると染色体は数ポイントしか相違ないという。ここで小生のプロモーターとしての本能的直観が冴えて、日本に連れてきて、テレビ番組を組むことを思いついた。

 ここからがテレビ史上まれにみる大騒動の始まりである。「木曜スペシャル」の特番として「人か猿かオリバー君」が組まれることになる。ここで、徳光和夫君が番組司会者として登場することに相成った。彼がテレビ司会者として、本格的にブレイクするきっかけの一つになった「事件」である。

 ちなみに、今をときめくテリー伊藤君は、当時テレビ制作会社のまったく無名のチンピラ新入社員で、オリバー君の食事係。毎日ダイヤモンドホテルの特別室でオリバー君にかかりきりで、彼に言わせればあまりに馬鹿げた大騒動についにキレまくり、オリバー君にバナナを投げつけることになる。しかし「オリバー君騒動」はテリー君のその後の人生を決定することになった。彼は、この時テレビの持っている破壊的影響力にはっきり目覚めさせられる。コンゴの上流からただのチンパンジーを連れてきて、「人か猿か」と銘打ってのこれだけの大騒動をデッチ上げることができるなら、今に見ていろ俺だって一発かませてやると密かに決心する。

 その後、程なくしてビートたけし君を主役にした「元気のでるテレビ」のプロデューサーとして大ブレイクしたのは、皆さまよくご存じのはずだ。彼は今でもことあるごとに「僕の今日があるのは希代の怪プロデューサー康芳夫のお陰である」と言っている。

 ちなみに、「オリバー君大騒動」の結末は、専門家の鑑定によると限りなくチンパンジーに近い生物という結論。放映翌日の朝日新聞の朝刊は、社会面トップ記事でただのチンパンジーという内容。いくら朝読戦争が激烈を極め読売子会社の日本テレビ番組をいじるにしては、あまりにも大人げない記事で満天下の失笑をかっただけだ。俗に世間で言う「ヤキ」がまわったとは将にこのことだ。

 以上が「オリバー君大騒動」の顛末である。


 康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。

Vol. 2 「家畜人ヤプー」出版秘話

 

 前回にひきつづきメディアがらみでとっておきの裏話を書いてほしいという要望なので三島由紀夫が絶賛惜しまなかった「戦後最大の奇書家畜人ヤプー」にまつわる出版秘話をこの際公表する。今から四十数年前サド裁判で一躍名を馳せた澁澤龍彦を責任編集者としてチャーターし、高級エロ雑誌『血と薔薇』を創刊し、三島由紀夫を最高顧問とした。小生はいろんないきさつもあって三島由紀夫とはうまくいかなかったが「家畜人ヤプー」を彼の推挙もあって『血と薔薇』に掲載することにした。しかし『奇譚クラブ』というSM雑誌に掲載されているとはいうものの作者「沼正三」の正体は一切秘匿され「沼正三」の正体をつきとめるのは困難をきわめた。当時マスコミでは彼の正体は三島由紀夫ないしは当時、東京高裁判事だった倉田卓次、あるいは澁澤龍彦ということにされており、それが事態を一層ミステリアスにしたのだ。彼は五年前に亡くなったが、彼の全権代理人は当初から小生であり、その正体を知るのは小生しかいない。現在、幻冬舎アウトロー文庫、及び「劇画家畜人ヤプー=石ノ森章太郎作画」がポット出版から刊行中。

 先述したとおり、澁澤龍彦編集の『血と薔薇』に掲載される予定であったが、いろいろ行き違いがあり、彼が三号で降板したので、四号に掲載した。ちなみに新編集長は知る人ぞ知る平岡正明。当時、彼はあの「犯罪者同盟」のリーダーであり、盟友に画家にして芥川賞受賞者の赤瀬川原平がいる。なお、澁澤責任編集の下で最初編集長に内定していたのは、今や日本を代表する「知の巨人」とされる立花隆である。彼も澁澤とそりが合わず降板。実現していれば立花隆編集長による「家畜人ヤプー」掲載ということなった訳だ。当時、彼はまったく無名であったが、周知のごとく、その後にロッキード裁判、その他、一連の田中角栄スキャンダル追及記事で、一般的にもその名を知られることになった。彼をピックアップした小生としては、当時をふりかえってかえすがえすも残念なことだったと思わざるを得ない。

 初版から四十数年あまりにも、いろいろな「事件」がおきたが紙数が尽きたので、初版出版当時、右翼に襲撃された事件及び、現在の外国版出版状況等に簡単にふれておくことにする。右翼が襲った理由は同書の中で日本民族が白人の性的及び労働奴隷としてあつかわれ、その内容は日本民族を徹底的に侮辱しているというものだった。この時、三島由紀夫が声明文をマスコミに配布し、「作者の最終的意図をまったく理解できない下等な連中の仕業」と強く非難した。三島事件のしばらく前の事である。現在は、国内外で映画アニメ化の企画が進行中。過去においてもかのスタンリー・キューブリック、デヴィット・リンチ、日本では大島渚、若松孝二等が熱心に企画したが、実現には至っていない。外国語版は、現在、仏語版、中国語版(台湾出版社)が出版されて約十五年経過。一説によると中国大陸での地下出版は一千万部を超えているとされる。現在ロシア語版翻訳進行中。英語版はNYの出版社との契約トラブルで今まで進行しなかったが、しばらく前にトラブルが解決したので、近日中に出版される。

 以上小生が初めて公表する「家畜人ヤプー」出版秘話のブリーフィングである。

 


 康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。

  Vol.1 「最近のマスコミ事情」

 

 往時渺茫、小生が我が海城学園を卒業してあっという間に六十数年がすぎ去った。その間、母校にはごぶさたしっぱなしだったが、最近徳光和夫君が同窓会長に就任した縁もあって、毎年同窓会に出席させてもらっている。彼とは仕事上では約四十年近いつきあいがあるが、彼に頼んだ最初の仕事は「オリバー君」歓迎パーティの司会であった。ちなみに、今をときめくテリー伊藤君は当時TV界に入りこんできたばかりで、かたがきは演出助手、実際の仕事は「オリバー君」の食事係等雑用係り。

 余談はさておいて、このたび母校に「海原メディア会」なるものが誕生したのにはいささかの感慨を禁じえない。小生在校時は大学進学者の中からメディア関係に就職する者はほとんどいなかった。当時正に「高度消費情報社会体制」が本格的に始動しはじめた時で、文科系の大学卒業者が、こぞってメディア関係に就職を希望し、入社試験がむずかしくなり、その結果として、一流メディアに母校出身者が就職することはむずかしかったということだ。然るに、このたび結成された「海原メディア会」名簿を見ると広告代理店を含む一流メディア在職者がずらりと並んでいるではないか。これはいうまでもなく、小生卒業後しばらくして、母校が一流進学校と化したことと、密接に関連したことであろう。とはいうものの小生としてはやはり隔世の感があるのは否めない。小生も日活、岩波映画等はパスしていたが、いきがかりでいわゆる「呼び屋」の世界に足をつっこむことになってしまった。

 以上とりとめないことを書きつらねたが、本稿のテーマが「現代を斬る」ということなので、海城メディア関係者に、一言「アドバイス」をしてしめくくりとする。小生は仕事上、メディア関係上層部との交流はそれなりに深いわけだが、最近の「マスコミ」は、広告代理店は論外として、「タガ」がゆるみきってしまっている。我々の頃は、マスコミ志望者はまがりなりにも社会の「木鐸」たらんとする意欲、野心をもってのぞんだが、今の連中は銀行、商社等にふられてしかたなくマスコミ界に入ってきた連中も多く、従ってはじめから「サラリーマン化」してしまっているのだ。これではどうころんでも社会の「木鐸」たり得ることはありえないではないか。これは日本の「未来」にとってまことにうれうべき状態である。この「駄文」を読まれた「海原メディア会」関係者の中に思いあたるところある人が居るとすれば大いに反省してほしい。 


康芳夫(こう・よしお)

昭和12年、西神田生れ。昭和31年、海城高校卒業。昭和36年、東京大学(教育哲学専攻)卒業。卒業後、「呼び屋」の世界に入る。

主な仕事。ボリショイサーカス、インディ500マイルレース、「オリバー君」招聘。その他、アリー猪木戦コーディネーション。

ネッシー探索隊(総隊長、石原慎太郎前都知事)プロデューサー。