Vol.29 マイナンバー

自動車じゃあるまいに、嫌なネーミングだ。今更その危うさ、怪しさを指摘しても仕方がないが、なんか中世の人頭税という人民の管理制度が頭をよぎる。全国民を番号で管理できれば統治者にとっては便利で安心だろう。その夢がついに実現できる環境が整ったということなのだろうか。

朝日新聞の伝説的名コラムニスト深代惇郎氏が昭和49年10月2日の「天声人語」にこんなことを書いているのを見つけた。国民総背番号制に反対する市民団体が政府によるコンピューターの使用を野放しにする危険について報告書を出したことを受けて書かれたもので、「官庁や自治体が集めた個人の経歴、財産、健康、税金、社会活動などが連結され、ボタン一つでその人の全記録が出されるようになったら、それこそ身も心も凍る未来社かが出現する。それにコンピューターのいうことは、局部的にはその通りだとしても、全体として正しくもなく、中立的でもないことが多い」と指摘し、「しかもコンピューターの恐ろしさは、一度覚えたことを忘れないし、修正しないことだ。若気の過ちの記録も、墓場までついて回るし、弁解することも許さない。コンピューターは個人の軌跡から行動まで、執拗な監視をつづける」と。

昭和49年といえばようやく会社の様々な部門で大型コンピューターの導入がはじまり、それがニュースになる時代だった。業務をコンピューターに置き換えることで人はもっと創造的な仕事に携わることができるといった楽観的な声も聞かれた時代だ。そのような時すでにコンピューターの特性とその危うさを看破していたのには流石だと感心する。このコラムが書かれた約20年後、ウィンドウズ95の登場で一気に個人の世界にコンピューターが普及し、さらに20年後の現在はご存知の通り、あらゆるものが電子化されその記録データがウエッブ上を駆け廻っている。しかもそれらのデータをいろいろな形で検索する技術が開発され、知らないうちに記録された知られたくないデータも掘り起こされる。そのような不都合な過去のデータを削除したり表示できないようにすることを求めるケースも多発している。深代氏が40年前に指摘した「執拗な監視」の世界が現実化している。今や我々は望もうと望むまいといまそんな世界に居ることだけは再認識した方がいい。

深代氏はコラムのまとめとしてこう書いている。「コンピューターなんかなくなれ、といってもなくならない。要は、だれが、何のために、どのようにコンピューターを使うかということだろう」。 政府はマイナンバーの利用促進のために利用ポイントとかクレジットカードとの併用とかの案を検討していると聞く。よもやそんなことが現実化するとはおもいわないが、あらゆるところで個人データが知らぬ間に記録されることから逃れられないとすれば、「誰が、何のために、どのように使うか」ということだけは常に考えておくことが必要なのかもしれない。嫌な世の中になりましたね。

 


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア前会長。