vol35.日曜画家の嘆き

もう何年も前だが霞が関周辺をスケッチしようと出かけたことがある。場所が場所である。サリン事件もあったしそうでなくても官庁街で見回りの警察官が多い。こちらは画帳やイーゼル、簡易椅子などを詰め込んだナップザックをかついで、どこに座り込んでも大丈夫なような汚い恰好をしている。不審者と思もわれても不思議はない。呼び止められて荷物検査などやられるのは気分悪い。鉛筆削りに使うカッターナイフも入れてるし、などと考えて出かけたことがあった。結果的には取り越し苦労だったのだが、あるビルの前で座り込んで描き始めようとしたらそのビルの会社の人か、ここは敷地内だからあっち行けみたいなこと言われて傷ついたことがあった。

こんなことを思い出したのもいまやこんな日曜画家の取り越し苦労や人の目を気にする心理が笑い話では済まない時代になってきたからだ。街中のあらゆるところに監視カメラが設置され、電車に乗れば常に不審者や不審物を見つけたら通報するよう呼びかけている。この時代他人と目を合わせることがないし、隣りの人と言葉を交わすこともないので、相手が何を思っているか分からない。人は見かけで判断するし判断される。思いもよらぬ形で通報されるということがないとは言えない。花見で望遠鏡やメモ用紙を持っている人は怪しまれるとなれば、もはや絵描きに限らない。見慣れない身なり風体の人や非日常的な物を持っている人は皆不審者と思われる可能性があるということである。なにもやましいことはないのだから堂々としていればいいものだが、人は制服に弱い。痛くない腹を探られて平静でいられるか心配になる。

多発するテロ事件や誘拐とか凶悪犯罪のニュースが連日流されているのを見て、社会の安全と人々の安心を確保するためには犯罪の未然防止のための監視と取り締まりの強化が必要だと思う人もいるだろう。だけどいったいどこまでいったらその安全安心が得られるのか、また誰にその管理維持を依頼するのかをしっかりと考えておいた方がいい。日本の監視カメラの設置台数は5年前で300万台とあった。監視カメラ先進国の英国ではロンドンを一日歩くと300回撮影されるとどこかで読んだことがあったが、いまや日本も同じような状況ではないか。なんの防衛手段もない個人の最後のよりどころが「プライバシー権」だとすれば、それをも放棄するあるいは侵害される形での安全安心というのは本来自己矛盾であるのだが、現代社会では個人情報を晒さなければ生活できない。電車やバスの自動改札、車のETC、ATM、携帯電話、NSNなどなど。これらのシステムは利用する特定個人と結びついていなければ成り立たない。ということは常に特定個人の場所、時間、移動状況、通話通信などのデータがどこかで管理され蓄積されているということである。

となると最大の問題は誰に安全安心を依頼するのかである。当然取り締まりは当局ということだが、ここは民間のセコムと違って往々にして依頼者の言うことを聞かず秘密裏に独自判断で動き出すことがあることは歴史が教えてくれている。もちろんいまは監視目的ではないが、かのスノーデン氏の警告によれば日本にもすでに携帯電話の会話情報をすべて把握できる監視ソフト・システムがあるという。簡単に監視目的に使えるということである。この動きが止められないとしたら、いま必要なのは変な装備で花見に行かなという自己防衛ではなく、監視に悪用されないよう厳しく当局を監視することである。メディアの役割は大きい。

働くということ

電通の女性新入社員がパワハラ過重労働によって自殺に追い込まれたという悲惨な事件は日本の企業における労働環境の劣悪さを改めて世界に露呈するものとなったが、一方で働く側にとっては仕事とどう向き合うべきか、「働くということ」について考えさせられるものとなっている。電通といえば昔から給与や諸手当の良さと仕事の自由度はあるが仕事は厳しく社内競争も激しく、社員が精神的に追い込まれたり、労務上のトラブルも多いという噂がたえないところだ。しかしテレビ新聞、マスコミの広告を一手に握り、政治家、スポンサー企業、当のマスコミからその有力者の子息をコネ入社させており、その影響力を持って、これまでも様々なスキャンダルが表面化するのを押さえ込んできたと噂されてきた企業である。今回はマスコミもかつてなくこの事件を大々的に報道し、厚労省も予想以上に早く電通を労働基準法違反で書類送検、さらに違法労働の実態解明に力を入れている。もちろん人の命の問題である、マスコミも厚労省もこの際電通の事件の違法性を真剣かつ徹底的に暴いてもらわないと困るが、それだけ今回の事件は社会的関心を呼んでいるということだろう。となればこれを奇貨として世界的にも劣悪と言われる長時間労働の実態、サービス残業といった日本の悪しき労働環境の改善に向けて政府、企業が動きすことを期待したいところだ。

 

しかしその一方で働く側もこの事件を機会に自らの精神の安定と生命を守るためにもう一度「働くということ」を真剣に考えた方がいいのではないかとも思うのだ。いま企業における若年労働者の健康問題、特に鬱病など精神疾患の増大が深刻化している。かつては労働者の権利を守るという立場での労働組合があり、賃金や労働条件などをめぐって会社と交渉するようなシステムがなんとか機能していた。しかしいまや全労働人口の約40%が非正規雇用者であり、組合がないかあっても有名無実。加えて「自己責任」ということが声高に叫ばれだしたころから一部の有能なあるいは恵まれた人にとっては利益となることはあっても多くの労働者にとって改悪となることばかりの改革が進められているようにみえる。成果主義はその典型で働いても低賃金で生活ができないという状況や限界を超える仕事量を押し付けられるといったことが当たり前のようになっている。電通の女子社員の悲劇もこのようななかでの過度の自己責任意識と孤立化という状況で起こったといえるだろう。

 

少し前だが、朝日新聞の投書欄にベトナムからの留学生のこんな投書が載っていた。「来日当初は街の発展ぶりや生活の豊かさをみてさぞかし日本人は幸せだと感じているのだろうと思っていた。しかし10カ月が過ぎた今、実はそうではないように感じる。日本は自殺率が高い国の一つだという。電車の中では寝不足で疲れた顔をよく見る。日本人はあまり笑わず、いつも何か心配事があるような顔をしている。日本人は勤勉で一生懸命働いていまの日本を建設した。でも会社や組織への貢献ばかりを考え自分の成果を自分が享受すること忘れていると思う。ベトナムはまだ貧しい国だが、困難でも楽観的に暮し、めったに自殺を考えない。日本人は何のために頑張っているのか。幸福とは何なのか、日本人自身で答えを探した方がいいと思う」。政府はいま「一億総活躍社会」とか「働き方改革」とかの旗を挙げて日本の労働市場、労働環境の改善に取り組む姿勢を示している。しかしその中身は労働者ファーストのものとは思えないし、この21歳のベトナム留学生の問いへの答えがでるとも思えない。となると仕事を離れた隠居老人が言うのもなんだが、もはや自己防衛しか今の日本で生きてゆく道はないのかもしれない。企業の犠牲になる前に「働くということを」を真剣に考えた方がいいような気がする。

vol33.スペシャルオリンピックス

オリンピックはやはりすごいイベントだと改めて思う。なんやかや批判や問題があってもこれだけの興奮と感動を全世界に与えることのできるイベントは他にない。気がついてみればテレビの前に居続ける自分が居る。男子400メートルリレーには正直涙が出るほど感激した。しかし問題はここからである。メディアが発達しすぎた現代では一人で記憶の世界に浸る楽しみを奪ってしまう。とりわけテレビがこぞって「あの興奮や感動、感激をもう一度」とばかり、その一瞬の出来事をこれでもかというほど繰り返して流し再生すると個人の頭の中にあるイメージは編集された映像情報に書き替えられ、興奮や感動感激までも皆で共有させられるとなると天邪鬼としては白けてくる。しかも「この興奮感動感激を東京へ」と駆り立てられるとなんだかパンとサーカスに踊らされた(踊った?)帝政末期のローマを想起させる。ゲームのキャラクターに扮して東京をアピールすることに同意し、実際に実行した為政者にとってはあながち冗談ではないのかもしれないが、オリンピックを国威発揚とナショナリズムの高揚に利用しようという意図があるとすれば恐ろしすぎる。少し落ち着た方が良い。

 

そんなことを思っているとき、同じオリンピックといってもスペシャルオリンピックス(オリンピックにSがついているのはオリンピック・ゲームスの略)というのがあることを思い出した。日本ではあまり知られていないが、ワシントンに本部を置く民間組織が主体となって開催している知的発達障害者の世界的スポーツ大会である。2005年に、長野冬季オリンピックの後、日本で初めてとなるスペシャルオリンピックス第8回冬季世界大会が開かれ、私はこの時初めてこのようなイベントのあることを知った。オリンピックの名前を公式に使うことを許されるほどすでに世界的に認知され支持されているイベントとなっているということに驚き、目を開かされた。さらにその時このスペシャルオリンピックスを開催するということは、その国やその都市のリーダーにとってはオリンピック以上に名誉なことであって世界的に評価されることだと言われていたのが強く印象にのこっている。

 

言われてみれば当然である。ここで問われるのは観客をひきつけ沸かせることではなく、知的発達障害者を輝かせることなのだから。彼らを受け入れ、支え、能力を引き出し、生き甲斐を提供するという開催国の国民およびその時のリーダーの本気度なのだ。その意味では日本でこのスペシャルオリンピックスを開催したということは長野県および国にとって画期的なことだったといま思う。あれから10年余、オリンピック熱に浮かれている中、相模原障害者施設で起こった非道な殺戮事件はあまりに衝撃的だ。この事件を特定個人の一犯罪にとどめようとし、社会、国さらには全人類の問題として捉えるといった視点からの対応を示さない全体のあいまいさがさらに不安を増長している。この事件は日本における知的発達障害者のみならずハンディキャッパー、マイノリティ、弱者に対する行政あるいは社会の意識が良い方向に向かっているというよりも悪化していることを思わせる。それでもあるいはそれだからか、いま日本のスペシャルオリンピックス関係組織は次回2019年の夏季世界大会を日本で開催しようと動いていると聞く。4年後のオリンピックの開会式の場に誰が立つことができるかというようなことで騒いでいるような日本で、果たしてこの「名誉」という対価だけのもう一つのオリンピックを引き受ける覚悟のあるリーダーは現れるのだろうか。

VOL32. いい独裁

組織の中ではなんで自分の意見や提案が思うように受け入れられず実現できないのか悩むことは多い。良かれと思っている企画や提案も稟議だ、会議だという過程を経るうちに決まらないまま消えてゆくということはよくあることだ。文句ばかり言って自ら動こうとしない連中が上にも下にもいるとなればなおさらだ。そんなとき、もし自ら決定し、その実現に向けて組織を思うように動かせたらどんなにいいかと誰しも考えるものだ。あるいは自分にその力はなくとも、自分の思いを代わって決断し実行してくれる強い決定権を持ったトップがいる組織だったらどんなにかいいかと思ったりする。「いい独裁」もあるのではないかと。

 

だがはたして独裁的な力をもった強いリーダーがいる組織がいいことなのだろうか。最近相次いで絶対的な権威権限を持って会社を牽引してきたカリスマ経営者がその表舞台から身を引くというニュースが報じられた。一人はコンビニ業界の神様と崇めれたセブンイレブンの鈴木敏文会長であり、もうひとりは自動車業界の風雲児スズキ自動車の鈴木修会長である。退場の理由はそれぞれ違うものの、どちらも企業を成長させる原動力となった「いい独裁」が限界に達し、そのマイナス作用がはっきりし始めたからではないか。

 

ある民間組織が昨年末、セブンイレブンを今年のブラック企業大賞に選んだ。マスコミ的には訳のわからない団体とみたのか、批判の相手がセブンイレブンということからか取り上げられることはなかったが、その受賞理由に本部に批判的なフランチャイズの店主が排除されているということがあげられていた。真偽のほどはよく分からないが、カリスマ化した会長の意向に沿った形で動く企業行動にほころびが露呈し始めていたのは間違いない。40年近くに亘ってワンマン経営をしてきたカリスマ経営者が退かざるを得なくなったのは、これまでの絶対権力のもとでの組織維持が限界に達したことを意味しているのではないか。

独裁体制の下で組織が思考停止になり硬直化したものになってこのままでは生き延びられないという危機感の表れではないだろうか。両社のなかでものを言えない息苦しさを指摘する人は多い。

 

強い権限を持つリーダーの何が問題かといえば、ワンマンに結びつき、それを支持する取り巻きができ、時にそのリーダーの権力を笠に動きだし、イエスマンばかりが集まった絶対的多数派体制を形成してゆくことにある。これはその体制の内側に居る人にとってはこれほど居心地のいいところはないと思えるが、逆にそのような体制に同調できず批判的である人にとっては物言えぬ世界となり、反発を表にだそうものなら、敵対者として徹底的に攻撃し排除されることになる。さらに往々にしてそのようなリーダーをマスコミが「成功者」として持ち上げるのでそのようなトップリーダーはいつまでも常に自分は正しいと思い込み、長期に亘ってその座に居続けるということになるのである。

リーダーの明確な決断と指示に従って、組織がまとまって目標に向かって動くことは大きな力であるし効率的に目的を達成できることもあるかもしれない。しかし強いリーダーの下で絶対的多数派を結成し、決断実行の効率性を求める組織がやがて独善的独裁体制へと向かうのは企業も国家も同じだ。

 

そんなことを考えていたらトルコでクーデター未遂事件が起こった。一時は「いい独裁」とみられた指導力のある大統領のエルドアン氏の下で独裁色が強まっていることに批判的な軍・警察の一部が反旗を翻したということのようだが、企業はダメならやり直しもきく。だが、国家はそういう訳にはいかないということは今回のトルコもそうだがこれまでの歴史が示している。「いい独裁」などというものは絶対にないのだ。

VOL.31 自主規制

ドキュメンタリー作家の森達也氏の書いた「放送禁止歌」という本がある。「メディアにおけるタブーが時代とともにどう変わってきたか」を放送禁止になった歌を元に考察してみようと企画したテレビ番組の制作をめぐる顛末記だ。もともと「テレビで流れていた歌があるときから聞かれなくなったのはなぜか」という素朴な疑問から思いついた企画で「タブーに挑戦する」といった意図は全くなかったという。しかし企画提案してみると「禁止の歌は放送できない」、政治的、あるいは部落問題などの社会問題に触れると「えらいことになるからやめたほうがいい」と局の反応は否定的なものばかり。タブーという重たい壁に突き当たる。

そこはさすがにドキュメンタリー作家である。「なぜタブーなのか」「えらいことになるとはどんなことか」と逆に助言や警告の中身、事実関係をそれぞれの当事者、歌手、ディレクター、局、さらには部落解放同盟にまで直接あたって問い質し、何が問題なのか、歌詞の内容なのか、視聴者の声なのか、局側の判断なのかなどなど一つ一つクリアーにしてゆく。その過程はさながら謎解きをするミステリーの趣で、読者としてもどんな結末を迎えるのかと気をもむことになるのだが、結末はショッキングだ。「放送禁止歌という決められたものはどこにも実在しなかった」のだ。

それでも一度レッテルを張られた歌が番組に使われることはない。場合によってはCDなどからも消えたり、歌手自身もコンサートなどでもあまり歌わなくなっていたりしているという形で厳然とその影響は広がっている。作者は自戒を込めて書いている。「メディアには巨大な力はあっても自覚はない。無自覚であるがゆえに事態を前にあっさりと思考停止に陥り、規制という巨大な共同幻想をたやすく信じ込んでしまっている」。そしてそこで明らかになったのは「実態のない大きな影におびえる自分を含めた制作者の愚かな姿」だったと。

かつて勤務したことのあるテレビ局で原子力や部落問題、創価学会それにヤクザの世界を扱うのはタブーといった雰囲気があった。いまならさらに政治的な色彩の濃いものも加わるのかもしれない。テレビ事業そのものが特別の利権を得て、守られた枠の中で成立した営利事業である。営業的に不利益になるようなことははじめから避けようという経営判断があるのは当然かもしれない。そのため制作サイドにもできるだけ物議を醸すテーマは避けようという配慮がどうしても働くことは確かだ。だが問題は森氏が指摘したように無自覚に「そういうもの」「当たり前」と受け止めてしまうことだろう。

少し前まで、報道は「バイ菌軍団」とさえ言われる局のお荷物だった。経営的、営業的なものと対立しても必然性があると判断すればタブーといわれるものでも取り上げる覚悟がまだあった。しかしニュースが「売れる」ようになってからは報道部門は花形部署である。そこに加えて社会全体がマニュアル化し、規則、規制に慣れっこになっている。制作側ももはや自主規制していることを自覚することもなく真面目にきれいな報道に専心しているようにみえる。いまかの国の総務大臣が「偏った放送をする局の放送免許を取り上げる」と発言していることでテレビがさらに委縮するのではないかと心配する声が上がっている。

しかし、もはやバイ菌のいなくなったテレビ局に放送免許が必要なのかどうかを視聴者の方から声を上げた方が良いような気がする。

 


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、前海原メディア会会長。

VOL.30 統制経済

「官民対話」なる政府と経済界代表との直接対話をみていると日本は本当に自由主義経済の国なのだろうかと心配になる。先の会合で政府は企業に対して賃上げや設備投資の大幅な増額、さらには先端技術開発といったことを強く要請したという。政府が企業の経営そのものに関わるようなことに直接口を出すのは筋違いというものだと思うのだが、これに対して経団連会長は政府の要望に沿って設備投資の増額や今年以上の賃上げを約束するような踏み込んだ発言までしたのには驚いた。政府の方針、要請にそって企業経営をするというのではもはや社会主義国の統制経済と同じではないのか。

しかし大方のテレビ新聞はこんな政府と企業の協調ぶりに対する疑問や懸念といったことには何も触れず、これで景気が良くなるなら日本経済にとっては明るいニュースという報道ぶり。どうも単純に、賃上げが行われれば厳しい雇用環境や低賃金にあえぐ労働者にとっては朗報であり、設備投資が増えることも雇用につながればそれも歓迎すべきことととらえているようだ。しかも企業は利益をあげているのだからその利益を貯め込まず雇用や福祉など使うべきだという企業批判は分かりやすいし一般視聴者、読者の支持も受けるということだろうか。結果的にその論調は政府の政策を批判するどころか企業に対する政府の要請を後押しすることになっていた。いくら経済が分からないと言ってもそれはないだろう。

と思っていたら、日経だけが、「官民いびつな協調」との見出しを掲げて経団連が設備投資や賃上げで「異例の回答」をしたと伝え、加えて「政府の介入に違和感」、「政府はほかにやるべきことがある」という論調の編集員の批判的な解説を載せていた。企業経営に政府が介入することは企業のモラルハザードを招き、活力をそぎ、日本経済をいびつなものとし、世界の自由主義経済社会からの批判にさらされることになる。自由主義市場経済を標榜する日経としては正論を展開する。さすが経済専門紙と見直したのだが、ふと財界の応援団であり現政権寄りとみられる日経がここまではっきり厳しい論調で書かざるをえなかったのはなぜなのか逆に気になった。ひょっとすると私が思う以上にすでに実態は官の統制色が強まっていていることへの危機感の表われではないのか。真意は分からないが、問題の本質がどこにあるかを知らしめることになったのは確かだ。

政府は年金積立基金の株式市場での運用を拡大し、デフレ脱却という大義を掲げて日銀との協調関係も強化してきた。その結果、日本の株価や国債は官制相場化しているといわれている。これだけでもすでに日本は十分に経済での統制色を強めている。そこに加えて民間企業が政府の意向で動くということになったら? もはや日経に期待するしかないか。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol.29 マイナンバー

自動車じゃあるまいに、嫌なネーミングだ。今更その危うさ、怪しさを指摘しても仕方がないが、なんか中世の人頭税という人民の管理制度が頭をよぎる。全国民を番号で管理できれば統治者にとっては便利で安心だろう。その夢がついに実現できる環境が整ったということなのだろうか。

朝日新聞の伝説的名コラムニスト深代惇郎氏が昭和49年10月2日の「天声人語」にこんなことを書いているのを見つけた。国民総背番号制に反対する市民団体が政府によるコンピューターの使用を野放しにする危険について報告書を出したことを受けて書かれたもので、「官庁や自治体が集めた個人の経歴、財産、健康、税金、社会活動などが連結され、ボタン一つでその人の全記録が出されるようになったら、それこそ身も心も凍る未来社かが出現する。それにコンピューターのいうことは、局部的にはその通りだとしても、全体として正しくもなく、中立的でもないことが多い」と指摘し、「しかもコンピューターの恐ろしさは、一度覚えたことを忘れないし、修正しないことだ。若気の過ちの記録も、墓場までついて回るし、弁解することも許さない。コンピューターは個人の軌跡から行動まで、執拗な監視をつづける」と。

昭和49年といえばようやく会社の様々な部門で大型コンピューターの導入がはじまり、それがニュースになる時代だった。業務をコンピューターに置き換えることで人はもっと創造的な仕事に携わることができるといった楽観的な声も聞かれた時代だ。そのような時すでにコンピューターの特性とその危うさを看破していたのには流石だと感心する。このコラムが書かれた約20年後、ウィンドウズ95の登場で一気に個人の世界にコンピューターが普及し、さらに20年後の現在はご存知の通り、あらゆるものが電子化されその記録データがウエッブ上を駆け廻っている。しかもそれらのデータをいろいろな形で検索する技術が開発され、知らないうちに記録された知られたくないデータも掘り起こされる。そのような不都合な過去のデータを削除したり表示できないようにすることを求めるケースも多発している。深代氏が40年前に指摘した「執拗な監視」の世界が現実化している。今や我々は望もうと望むまいといまそんな世界に居ることだけは再認識した方がいい。

深代氏はコラムのまとめとしてこう書いている。「コンピューターなんかなくなれ、といってもなくならない。要は、だれが、何のために、どのようにコンピューターを使うかということだろう」。 政府はマイナンバーの利用促進のために利用ポイントとかクレジットカードとの併用とかの案を検討していると聞く。よもやそんなことが現実化するとはおもいわないが、あらゆるところで個人データが知らぬ間に記録されることから逃れられないとすれば、「誰が、何のために、どのように使うか」ということだけは常に考えておくことが必要なのかもしれない。嫌な世の中になりましたね。

 


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア前会長。

Vol.28 格差の果て

 ピケティ氏が火を付けた格差問題、日本でもあの分厚い本が15万部も売れるほどに関心が高まったが、あっという間に下火になってしまった。「日本における格差は他国に比べて大きくなく、しかもピケティ氏の指摘は日本には当てはまらない」という政府や批判学者の論評に納得したのだろうか。ピケティ本の後に「勝ち組に入るために投資で資産作りを目指せ」というハウツー本や雑誌の特集があふれたことみるとピケティ氏の分析を警告としてではなく投資指南書として消化したということだろうか。日本人の「エコノミックアニマル」ぶり(古いなあ)いまだ健在といいたいところだが、そんな楽観的なことを言っていられる状況なのだろうか。格差の拡大、固定化の先に明るい社会があるとは思えない。

 週刊東洋経済が今年の4月『あなたを待ち受ける 貧困の罠』という大特集を組んだ。その中で「日本で問題視される格差とは、大衆層の貧困化なのである」と指摘している。資本主義経済を標榜する経済誌がこのような特集を組むこと自体驚きだがそれだけ事態は深刻だと言うことかもしれない。その中でセーフティネットの不備や社会福祉制度の不十分さなどから一度非正規労働の世界に入ると個人の能力や努力の範囲を越え、否応なく貧困の再生産へとはまり込むことが指摘されている。特に問題なのは次世代を担う子供たちだ。すでに6人に1人が貧困家庭にあり十分な教育が受けられない状態にあるという。健全な競争から生じる格差であれば許される面もあるだろうが、スタートラインがはじめから違う競争を強いられるとなればそれは健全な社会であるわけがない。

 とはいっても事態は格差是正というより拡大に向かっているのが現実だ。非正社員のキャリアアップの道筋を整備せず、過労など競争から脱落した人を救いあげるセーフティネットも不十分な中で進められている派遣法の改正とか残業代ゼロ法案など一連の労働法の改正の動きは格差をさらに推し進めようとするものとしか思えない。うがった見方をすれば、は勝ち組にいるものにとっては格差拡大とその固定化こそが自らの立場をより強固なもの

 にすることになる訳で、そもそも格差を是正する気はないのかもしれない。しかもしかも社会をリードして行くのは自分たちエリートであるとの妄想にとらわれ、優秀な人材以外はそれなりの役割を担ってもらう人材程度としか考えていないのかもしれない。

「ルポ貧困大国アメリカ」(堤 未果著 岩波新書)によれば弱者を食い物にする貧困ビジネスの最たるものは戦争だと書いている。貧困層の若者に大学の学費や医療保険の面倒をみるということで入隊を勧誘する実態や高額の報酬をちらつかせて戦場に労働者として送りだす民間派遣会社のことを報告している。帯には「他人事ではない格差社会の果て」とある。日本では徴兵制は絶対にないと誰かが言っているが貧困社会には徴兵制などはなから必要ないのである。安保法制と労働法の改定の動きが連動していないことを祈るばかりである。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol  27. 一億総白痴化

 報道の劣化をいまさら嘆いてみてもとは思うが、どうみても事態は悪くなる一方でこのままいったらどうなるのかいささか心配になる。報道に身を置いていた者として自らの力不足を棚に置いて偉そうなことは言えないが、それにしても新聞もテレビも「これがニュースだ」「報道する価値のあるものは何か」といった問いかけや判断を放棄したとしか思えないようなものばかりがあふれている。NHKは会長発言ややらせ問題を理由に政権党による事情聴取(圧力)があって、まったく当たり障りのないニュースばかりになっているし、テレ朝も看板ニュース番組でゲストコメンテーターが番組中に番組制作の裏側を暴露して降板してからは番組で何を言ってもどうも嘘っぽくみえてしまう。新聞も朝日の慰安婦問題以後なんとなく遠慮がちで勢いがないように思えるし、なんだか紙面も薄くなっているように感じる。かろうじて夕刊紙や週刊誌が気を吐いているようにみえるが見出しの派手さほどにかつての田中角栄研究のような核心に迫るものはない。

 いまテレビで気になるのはランキングと称してHPだかユーチューブだか電子メディアのアクセスの多いものを順に並べたりするニュースのつくりだ。視聴者のニーズが多様化している時代だからそれぞれのニュースの価値や判断は視聴者に委ねるといえば聞こえはいいが、報道機関の編集権というのはどこにあるのだろ。ニュースのランキングは送り手が自らの責任と覚悟の上で視聴者に問うべきものではないのか、報道に携わる者の矜持というものはないのだろうか。

  新聞では近年のモバイルを持ち込んでの記者会見がどうもいけない。病院の先生が患者の顔も見ないで診断するのと同じで、会見におけるやり取りに緊張感が全くなく、ただ相手の言っていることをひたすら打ち続け、相手の表情や言葉のニュアンスを感じながら核心に迫ってゆくということがないように思える。その結果か、最近の記事には「00は00と言った」と書いたあとに「これこれの疑問にはふれなかった」とか「00については否定したがこの問題は残る」とか、ある種の批判めいた指摘を書いて締めくくる書き方が目立つ。疑問や問題があると言うのならばその場でそれを質すのが記者というものだろう。そのうえで記事を書くのではないのか。記者会見は報道機関に与えられた特権であろう、読者、国民を代表して生の相手と対峙していることを忘れているのだろうか。 

 「国境なき記者団」という国際ジャーナリスト組織の調査によれば日本の報道の自由度は世界61位だそうだ。自由主義国という看板を掲げる国としてはいささか不本意なランクだと思うが反省する気配はないようだ。大宅壮一氏がテレビ時代を批判して「一億総白痴化」が進むと喝破したのは1957年のこと。いやまテレビのせいばかりではない。メディアの劣化が「反知性主義」をもたらしているのではないか。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol26. イスラム国 その2

 英語のアサシン(暗殺者)という言葉はアラビア語のハシーシュ(大麻)からきているという。11、12世紀ころに現イランの北東部を拠点とした狂信的教団が暗殺という手段を使って敵対する支配権力に対する抵抗闘争をしていたという史実がその由来だ。かのマルコポーロが東方見聞録の中で、この暗殺団のことを「山の老人」という話として伝えている。

 

 概ねこんな内容だ。「峻嶮な山奥に長老が住んでいて、彼は山の谷間を囲い込んで綺麗な宮殿を建てた。そこには世にも美しい庭園がつくられ、葡萄酒や牛乳、蜂蜜、豊富な水が流れる川があり、果実をたわわにつけた果樹が植えられていた。しかもそこでは妙齢の美女が楽器をかきならし歌い踊っていた。そこはまさにマホメットが語っていた楽園のようだった。そこに刺客に仕立てる屈強な若者を、一服もって眠りに落としたうえで運びこむ。目が覚めた若者はこれこそ楽園だと信じ込む。その別世界を満喫させたあと若者をある時また眠らせて現実世界に連れ戻し、山の長老が命じる。これこれの人物を殺してくれば天使がまたお前を楽園に連れて行くだろうという。若者は楽園に帰りたいとの思いから死の危険を冒してもこの命令を遂行した」

 

 「暗殺者教国―イスラム異端派の歴史」(岩村忍著)によればこの暗殺教団はイスラム教のニザリ派の信奉者集団だという。このニザリ派というのはイスラム教の非主流シーア派から分派したイスマイリ派の中からさらに離れた小派で、原始イスラム教の峻厳な絶対性を復活することを説いている。その純粋性、厳格性ゆえに厳しい戒律のもとで信奉者は強い結束力を示し、己の教義の目指す世界の実現のためには手段を選ばず敵対者との闘争を続けて来た。当初はセルジューク族のイスラム教主流派のスンニ―派の支配を攻撃対象としていたが、やがて同系宗派ともいえるイスラム非主流のシーア派とも敵対することになってイスラム世界全体から異端の暗殺者教団と恐れられることとなった。ただ暗殺の対象は支配者層、有力者でスンニー、シーアを問わず一般大衆を狙うことはせず、社会的弱者を味方につけていたという。またその影響地域は一地域にとどまらずペルシャの東北部や中部など各地に信奉者が拠点を持つ形で広がっており、ネットワーク国家を作りあげていたといわれ、時の支配者側が必死にこの暗殺教団の討伐を試みるがいずれも成功しなかった。

 

 さてこの話、なにか現代の「イスラム国」を彷彿とさせないだろうか。「イスラム国」に夢のような楽園が存在するとは思えないが、多くの若者たちが自爆テロや過酷な戦闘に身を投じる姿は、死後の楽園を夢見て暗殺者となった「山の老人」の話とダブってみえる。またイスラム教徒の弱者への支援など生活インフラ整備も進めているといわれ、国境を越えたネットワーク国家づくりも進んでいるようだ。またいまやその過激性から既成イスラム国家からもテロ集団として恐れられているのも暗殺教団と共通しているようにみえる。

 

 その暗殺教団は13世紀になってこの地域に進攻した蒙古軍によって完全に討伐されるまでおよそ200年にわたってその活動を続けていた。はたして「イスラム国」はどのような運命をたどるのだろうか。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

VOL.25 公平公正 

 衆議院選挙を前に自民党がテレビ各社に公平中立な報道を要請する文書を出したことが影響したのかどうか分からないが、今回の選挙を巡るテレビの放送時間は今までと比べて随分と少なかったという。もともと許認可のもとで成り立っているテレビが“お上”にたてつくことなどあまり期待はできないとはいえ、公平とか中立的とかいわれて反論もせずに自粛しているとすればあまりにも情けない。そんなことを思っている時公平性ということで思い出した。テレビ草創期の1950年代、アメリカで吹き荒れた赤狩り旋風に果敢に挑んだ伝説のCBSのニュースキャスター、エド.マローのことだ。リベラルな発言をすればすぐに共産主義者のレッテルが張られ、職場などから追放されるという恐怖が社会全体に漂い、報道機関も自らの身が危なくなることを恐れ口をつぐんでいる中で、彼は公平性を盾に赤狩りの急先鋒であるマッカッシー議員の発言の矛盾、欺瞞性を明らかにする番組を制作するのである。

 

 それは「ニュースキャスター エド・マローが報道した現代史」(中公新書 田草川 弘著)に詳しいが、相手には反論があれば放送した番組と同じ放送時間を与えることを提案しているのがその戦法である。それは予め両方の意見を公平に提示することを保証することで番組が一方的な意見、あるいは個人攻撃であると相手から付け込まれるのを避けようということを狙っている。いわばテレビ報道における公平性を逆手に取った作戦だった。さらに注目されるのはその番組の作り方である。マッカーシーのそれまでのラジオ、テレビでの発言や演説など過去の言動をすべて洗い出し、彼自身の言葉、しぐさ、表情をみせることで論理矛盾や本人の人間性を露わにするものだったという。敢えてコメントを挟まず、事実を伝える報道の客観性の体裁をとりながら、破たんしている姿をまさに本人が雄弁に語る姿を観せることで視聴者が理解するという内容になっていたという。

 

 時代背景、状況は今とは比べものにならないが、テレビの報道番組を制作する基本姿勢が明確であったから番組は成功し、評価されたと言える。公平公正中立といった当局からの発言はある種の圧力、規制ということにもなるだろうが、それも使いようである事をこのマローの番組は示していないだろうか。「みんな怖いんだ。われわれはある意味でみな共犯者だ。そうでなければ一人の男がこれほどに国中を怖がらせることはできないはずだ。我々の仕事は放送したものによって評価される。しかし放送しなかったものによっても評価されるのだ。放送しなかったら一生悔やむことになると思う」とその批判番組をやると決めた時の覚悟をマローはこう語ったという。

 

 余談だが「テレビジャーナリズムの父」と英雄視されたマローも結局は安定を求める組織の中に居場所を失い局を去ることになる。半沢直樹が土下座を勝ち取ったあと左遷されたのと同じである。さてそれでも報道にかけるという記者がいることを願いたいものである。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol.24 イスラム国 

 ブランド化の要諦はネーミングにある。最近の最大の成功例は「イスラム国」だろう。イラクやシリアなどの反体制イスラム過激組織が自らをイスラム国と呼んだことで明らかに対外的、内部的なイメージが大きく変わった。これまでの限定された地域の単なるテロ集団というイメージから既存の国家の領土的制約を超えて拡張するイスラム世界のイメージ作りに成功しているように見える。その結果反テロ対策として特に米国などが行ってきたこれまでのような単純に特定のテロ集団を武力で潰すことで問題を封じ込めるという戦術は通用しなくなったように思える。逆に国境を越えて拡張するイメージは新しい理想世界としてこれまでテロや武力行使さらにはイスラムに関心のなかった人をも引き付けている。

 

 イスラム国の体制、組織がどのようになっているのかは分からない。しかし戦闘の面だけでなくそのネーミングや対外宣伝のやり方、資金調達力や“国民”を増やすリクルート力などをみると、組織的に動いているように見えるし、それらを戦略的に考える相当の頭脳集団が存在するのではないかと想像する。問題はこの先どこに、どのように向かって進んでゆくのかということである。キーはやはりイスラムである。しかも「国」の統治者として預言者モハメッドの後継者であり神の代理人としてのカリフの復活を宣言しているということに注目すべきだと思う。このことは最終的に目指す世界は宗教と政治の両方を統治するリーダーのもとにある世界の実現である。

 

 実はこのような世界を先取りして垣間見せたのがイランだった。35年前のイラン革命はイスラムの宗教指導者が政治社会の世界でも指導的な役割を果たす国家をつくるものであった。これはイランのイスラム教少数派(シーア派)を主導してきたホメイニ師のイスラム解釈に基づく独自世界の実現だが、もともとイスラム教はマホメッドが預言者として宗教的にも政治的社会的にも集団を主導していた時代の世界を理想としている。その意味ではイランの革命もイスラム的には否定できない面があると言えそうなのだが、イスラム教主流派・多数派(スンニー派)はイランのイスラムは異端であると排撃、宗教と政治を分けて国家を統治している周辺イスラム諸国も自らの国家体制を揺るがす危険思想として敵対することになった。とりわけイスラムの盟主を自認するサウジアラビアなどが現在イスラム国を名乗ることにまでなった反イランのイスラム過激勢力を陰で支援して来たといういきさつがある。

 

 だが、いま皮肉にもその支援してきたイスラム過激勢力がその「マホメッドの世界」の実現を錦の御旗に掲げ始めたのである。しかもイスラム主流派の組織の宣言である。言いかえればもはやイランを異端者扱いしてきたような言い逃れができなくなったということである。イラン革命の影響を避けるためにと育てた防衛部隊が実はモンスターだったということである。宗教と政治を分離した一国主義の体制をとるイスラム国家全ての足元をも危うくする存在になったのである。その意味では今後の注目点はイラク、シリアの動向というよりもメッカを抱えるイスラムの盟主サウジアラビアがどうなるかということになる。サウジが揺れ出したとしたらその時世界がどうなるか想像もつかない。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol.23 輝く女性

 安倍政権がにわかに女性たちを意識した政策やスローガンを掲げて、女性の活躍する新しい社会の実現を目指すと強調し始めた。表に出て活躍する女性支援をPRしようと女性閣僚を一気に5人に増してみせ、さらに上場企業に対して女性役員を増やすよう迫るなどさかんにその本気度を強調している。もちろんこれで少しでも女性を取り巻く社会環境が改善され様々な制度が整備されることになればそれはそれで結構なことである。女性に不人気と言われた政権の支持率が少し回復していると言うから女性問題を政策課題にしたことだけでも評価するという人もいるのだろう。だけど突然のこのキャンペーン、狙いは少子高齢化で顕在化した労働力不足を少しでも解消するためになんとか女性を労働市場に引っ張り出したいという下心が見え見え。なんだか「気をつけよう甘い言葉となんとかみたいで心配だ。


 「男の時代は終わった、これからは女の時代だ」と言われはじめたのは80年代のことである。「あらゆる分野で女性が大活躍、男はたじたじするばかりと開高健がどこかのコラムで書いていたのを思い出す。だが世界的に見ると日本の女性役員比率や、政治家など社会進出度は最低レベルだそうである。そこで政府はもっと増える余地があり増やさなければならないと旗を振る。もちろんあらゆる分野で活躍する女性が増えることに異論はない。そのためにこの活躍する女性たちが経験した苦労や社会的差別や偏見、不都合な制度などを取り除き、次世代の女性がより活躍しやすい社会を作ろうというのは正論だ。問題なのはいわば少数の成功エリートの女性を前面に出して働く女性の輝かしいイメージばかりを強調していることである。まさか賢い女性たちが「私も輝かしいキャリアをつかむことができるかもしれない」と安易に成功者の世界に浸ってしまうことにならないとは思うが、かつてITバブル時代にホリエモンがいわば負け組の若者たちに支持された姿を思い出す。


 これまでの労働政策をみてもはじめは良い事ばかりが強調され、後で「こんなはずではなかった」ということになった事例は多い。男女差別をなくすということで始まった男女雇用機会均等法に基づく総合職一般職の導入で新たな差別が定着し、自由な働き方ができると喧伝された契約制度や派遣労働、キャリアアップにつながると言われた転職の勧めや起業の勧め等々は結局安く使える非正規労働者を増加させて来た。今や非正労働者数が正規労働者を上回りその格差が拡大している。さらに今回「女性が輝く社会」といっている裏で配偶者控除の廃止や年功賃金の廃止、残業時間の制限撤廃の声も聞こえる。「輝く女性」の幻想をふりまいてこの競争社会に女性を引っ張り出した後には一部の成功者だけが「輝き」、競争社会に疲れた男性とともに多くの女性が疲弊する社会が待っているとしたら悲劇。

いや喜劇か。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol22. メディアの責任

 慰安婦問題における朝日新聞バッシングが過熱している。韓国で従軍慰安婦を強制連行したという30年前の記事を朝日が突然取り消すと表明したことが火に油を注いだ格好だ。「20年も前から否定されている記事を今更なんだ」から始まって「朝日の報道が日韓関係を破壊し、日本が世界から不当な批判を受ける原因を作った」とか「これはメディア犯罪だ」「国会に招致して追及するべき」と言いたい放題である。もちろん朝日の報道機関としての反省とけじめはそれとして指摘されるべきだが、記事取り消しによって現在の慰安婦問題のすべての責任が朝日にあるような批判や言動は悪乗りとしか思えない。

 

 自らの報道内容に全責任を持っている報道機関としては間違いがあれば自らが原因や問題点を徹底的に検証し同じような過ちを繰り返さないための対策なり対応策を講ずるのは当然だ。その意味で朝日は「誤報」そのものとその後の報道とその影響についてジャーナリズムの観点から自らが徹底検証し、問題の所在を明らかにする必要があるだろう。その上で報道機関としての役割や責任などを明確にするべきだと思う。慰安婦問題特集の中で唐突に問題の記事を事実の裏付けがはっきりしないので取り消すとしたやり方や、いま論争となっている慰安婦問題の本質からみると問題とされる記事自体がもはやあまり重要でないような書き方をしていたのは如何にも姑息だ。かつて「新聞と戦争」で戦時における自らの報道の功罪を検証した朝日である。慰安婦問題でもやって欲しい。

 

 さて問題は、「現在の日韓関係の悪化の原因を作ったのだから責任者は国会で追及すべきだ」、「これはメディアによる犯罪だ」といったもう一つの朝日責任論である。これはいくら朝日が憎いといっても筋違いというものだろう。朝日の報道が多大な影響を与えたとしても外交の責任は国家・政府にある。朝日の「誤報」が日本の名誉棄損を招いたのではなく時の歴代の政府、外務省の外交政策が今の事態を招いたのである。もし日本の外交が朝日の「誤報」をもとに行われてきたとすればそれはそれで余りにもお粗末なことだ。逆に全面否定できることであってもそうしなかったというのであればそれは国家としての外交判断か別の判断があったのだろうと考える。いま韓国が慰安婦問題を外交問題にしているからといって朝日新聞にその責任を問うよりは、それだけ事を大きくしてしまった国・政府の外交政策の稚拙さ脆弱性を問うべきではないのだろうか。

 

 それにしても国会招致などということを同業他社あたりからも出ているのには驚く。国会は朝までテレビではない。機関として主義主張の違いがあるとしてもジャーナリズムや報道の自由といった本質の部分でメディアが共闘体制をとれないことではこれからの日本の報道にあまり希望はもてそうにない。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol.21 イスラム離れのイラン

 革命から30年経っても世界のイランを見る目はどうしても過激なイスラム国家のイメージから抜け出せない。その指導者の言動がイスラムの覚醒、イスラム原理主義を主張するテロ組織の台頭を促してきたことを思えば、そのように思われても仕方がないかもしれない。しかしイランに入ってみるとあまりのイメージの違いに拍子抜けする。なんだか平穏そのものなのだ。もともとイラン国民のイスラムに対する宗教的関心度は全体的には低いのだが、いまはどうも国民の間にイスラムに対する幻滅感すら漂っているように思えるのだ。

 

 今回あれっと思ったのは礼拝の時間を知らせるコーランの朗詠「アザーン」が全く聞かれなかったことだ。30年前は夜明け前や夕方にはあちこちのモスクから一斉にコーランが流れ町中に響きわたっていたのだが。「やってることはやってますよ。でも町全体に響くようなことは控えているみたいだ」という。市民のイスラムに対する反発が強まっているので宗教界が以前より静かになっているというのだ。イランは小話を作るのが昔から得意なので本当か作り話か分からないが、こんな話を聞いた。「最近のタクシーは坊さん(ムラー)を乗せない。完全に無視するし、乗せてもわざと行き先を間違えたと言って帰りの車もつかまらないようなところで降ろしたりしている

 

 テヘランの司法省の前には大勢の人だかりができていた。「25年も待っているのに私の土地はいつ返ってくるのだ」といったプラカードを持つチャドルをかぶった女性たちの姿もみえる。革命によって大きく制度が変わったことに加えその後も制度や規則がたびたび変更されるため、判断を仰ぐために司法省に押し掛けるケースが多いという。地方ではイスラム体制の中で力を持った坊さんや地域の権力者が勝手に動くケースもあって混乱に拍車をかけているようだ。「会社に坊さんが入ってきて礼拝を強要したり、従業員の教化活動をしたり。あれやこれや口出しして、結局仕事にならず会社は倒産に追い込まれた」と中小企業経営者が嘆く。それでもテヘランには高級マンションが立ち並ぶ。一体誰が購入するのだろうかと聞いたら「坊さんや新興の利権集団の連中さ」とタクシーの運転手は吐き捨てるように言った。

 

 現政権が国内の不満をまた外に向けることは考えられる。しかし「イスラム世界になれば素晴らしい世界が誕生すると言ってきたが何も良い事はなかった。このイランの30年がそれを実証している」と感じている人は多い。不満を高める国民を再びイスラムの旗のもとに結集させることができるとは思えない。逆に米国との関係改善も視野にいれた政策をとらざるをえないようなところまできているように見える。イランのイスラム国家建設という理想に向けた「実験」は30年を経ていま大きな岐路に立たされているようだった。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol 20.  30年

 6月に約2週間イランを旅した。およそ30年ぶりの訪問である。予想以上に首都テヘランが近代都市へと変貌していることに驚いた。北は背後のエルボルス山脈の中腹まで高層マンションが立ち並びさらに上へと開発が続いている。首都から1時間余り離れた南西部に新しい空港が作られ、そのアクセス道路にそって新興住宅がつづく。テヘランは北へ南へ大きく拡張している。都心に入ってみれば高速道路が縦横に張り巡らされ、その脇には緑豊かな公園が整備されスプリンクラーが散水している。地下鉄も開通した。けたたましい警笛音があふれ、雑然としながらものどかな雰囲気を漂わせていたかつてのテヘランの姿はもはやない。

 しかもテヘランを見る限り確実に生活が豊かになっているように見える。なんだか街全体が高級化しているのだ。真新しいベンツやBMW、レクサスが走り大衆車もプジョー(合弁国産車)だ。西側の高級店のようなレストランや商店も増えている。さらにびっくりしたのは生活様式も近代化?して、地下にはプールやトレーニングルームもあるマンションが当たり前になっているという。公園ではジョギングに汗をかく姿も見られる。さらに驚いたことに最近はペットブームだという。

 シラーズやイスファハンといった地方都市でも、町は活気にあふれ、新興住宅が郊外へと広がりあちこちで大型マンション風の集合住宅の建設が進んでいた。都市を結ぶ幹線道路は片側3車線の立派なものが整備され、途中土産ものやレストランがあるサービスステーションもできていたのには驚いた。家族ずれのドライブ客も多いようで、結構なにぎわいを見せていた。また建設資材や生活物資を積んだ大型トラックがひっきりなしに走行している。人や物の移動は予想以上に活発なようだ。

 革命そして米国との断交、イラクとの戦争、継続的な内政の混乱、外交的な孤立、核をめぐる経済制裁。伝えられるニュースから描いていたイランのイメージは、とても開発や経済発展など望めないのではないかというものだった。さらにイスラム化が一段と進み国全体が暗く停滞しているのではというものだった。それがまったく違っていた。いい意味で大きく裏切られた。でもイランの友人はいう。「30年は十分長いです。でも30年でこれだけかといま多くの人が思っている」と。さて革命で西でも東でもないイスラム国家の建設を目指すとしてきたイランの現在の姿をどう見たらいいのだろうか。次回改めて検討してみたい。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol 19. 集団自衛権

 ニュースというのは文字通り新しいこと。その新しく起こったこと、新しく出現したこと、新しく発見したことを伝えるのが報道の原点である。もちろん報道はその新しい現象をただ流すだけでなく、その都度最大限、理解し分析して評価して伝えるのだが、往々にして次々に現れる新しいことへの対応に眼を奪われ、古くなったニュースの多くは未解決、未消化のまま消えてゆくことになる。しかも気がつけば以前からの主張とのずれが生じていたり、本質からかけ離れた枝葉のところで踊らされていたということもまま起こる。これはいわば報道が抱える宿命的な弱点といえるものかもしれない。

 

 そんな事を改めて考えたのは最近の集団的自衛権を巡るニュースを取り上げれば取り上げるほど政府の広報になっているようにみえるからだ。「諮問機関の報告書が出された」、「首相が記者会見」、「与党が集団的自衛権行使の具体的な事例を協議」・・・矢継ぎ早に出されるニュースに反応しているうちに政権のスケジュールに乗らされ、何時いつまでに決断しないといけないという雰囲気が作られている。しかも記者会見という場を使って「日本の老人子供が乗っている米艦船を日本が警護できない」といった事例をパネルを使って国民向けに説明するといったことに対してメディアは手をこまねくしかない。集団的自衛権の問題について政権はこれまで以上にメディアの特性、利用方法を考えたうえでニュースを出しているようにみえる。とすればなおさら報道側はニュースの取り上げ方、伝え方を考えなければならないだろう。

 

 ニュースを伝えないという選択肢はない。相手の土俵に乗らずにニュースの意味を伝えるためにはどうしたらいいのだろう。結局は上辺の論争に巻き込まれるのではなく地道に本質を突きつづけるしかないのではないか。そもそも集団的自衛権は我々の生命と暮らしを守るといった自衛目的のためにあるものではない。他国のためにあるいは他国に代わって合法的に武力行使できるということを認めるというものである。日本と同盟的関係にあるすべて国の安全保障のために必要とあれば武器を持って参加するというものである。政権の思惑や個別的事例の良し悪しをうんぬんする近視眼的な報道を脱して、そもそも論を徹底して展開し、ことの本質を突きながら論争を巻き起こすような報道が求められているように思う。


小西洋也(こにし・ひろや)

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現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol.18 理系

 理研のSTAP細胞をめぐる騒動や製薬会社と大学が一緒になった臨床薬の研究の不正やデータ改ざんなど最近どうも科学者の評判がよろしくない。それにかこつけてか某週刊誌が「だから理系はダメなのだ」という特集を組んでいた。理系は研究室の狭い世界にいて世間知らずだというのがその趣旨のようだが、女性との付き合いに疎く、実社会では上司に向かないとその人格まで問題にしている。そこまで言われると理系の末席に身を置いた者としては黙っているわけにいかないが、人格は別にして確かに何かおかしい。原発を巡る論議が最たるものかもしれないが科学者の純粋性とか矜持とかは一体どこへ行ってしまったのだろう。

 「最近の若手の研究者ははじめからその研究がどれだけ利益を生み出すかとか、それだけ予算をかける研究なのか、ということばかり気にする連中が多くなった」と某大手電機企業の研究部門にいる友人が嘆いていた。もちろん営利企業の研究であり、はじめから自由な研究はあり得ないとはいえ、そのような世界でも昔はもう少し自由度があったし、変な研究から生まれたものが世に出ることもあったという友人曰く「今は大学でも土日や休みの日に研究室に出ようと思うと事前の許可を取らないとだめだというし、大学すら自由な研究ができるという環境はなくなっている。大学も効率とか成果とか問われて、そんな環境で育てば実利的な研究者が増えるのは仕方ないだろうね」とあきらめ顔だ。

 本来、科学の研究というものは真理の追究というか未知の世界を探求することに喜びと楽しみを見出してゆく世界である。しかし時代の価値観はいまや経済合理性第一である。時間がかかり場合によっては多額のお金もかかるし、しかもその成果がどんなものか分からない、すぐにお金に結びつくものではないかもしれないというような科学の研究を許容する社会的な余裕は日本のどこにもなくなっている。経済合理性とはいわば相反するような世界にある理系の世界だからこそいま余計にこの新しい価値観との葛藤が目立っているようにみえる。理系が「おかしい」原因はこの辺にあるのかもしれない。しかし考えてみればテレビ局でも自分がやりたいということよりもはじめからそこそこの視聴率を取るとか営業的に成り立つとかの「成果」を気にして企画を検討するような連中が増えている。理系を揶揄する文系も同じ立場にいることはいうまでもない。このまま経済合理性を追求することがいいのか理系の混乱は問うているように思える。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

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Vol.17  ガイジン 

 海外から日本に帰って来ると「日本には同じような顔をした人しかいないのだな」ということを強く感じる。欧州諸国でもそうだが、特に米国NYあたりにいるといろいろな人種の、いろいろな職種の、いろいろな生き方、考え方の人たちがその国の社会をつくっていることが当たり前であり時にそこにいる自分までもがその国の人に間違われることさえある。顔かたちは国籍と全く関係ないのだ。そんな世界からみると良し悪しは別にして日本は特別なのだなとつくづく思う。

 そんな日本で移民問題が本格的に議論の俎上にあげられることになりそうである。50年後の日本を見据えて解決すべき課題を討議している経済財政諮問会議がこのほど現状の国力を保つためには1億人規模の人口を維持する必要があり、そのためには年間20万人程度の移民受け入が必要であるとの「試算」を発表したのだ。シミュレーションとはいえ移民受け入れをここまで具体的に正面から取り上げたのはおそらく初めてではないか。その流れからすれば年内に出すことになっている報告書では何らかの形で移民受け入れの提言が盛り込まれる可能性は高い。もちろん提言がそのまますぐに政策に反映することはないが、正式提案となれば、政府も何らかの判断を迫られることになるのは間違いない。

 このまま少子高齢化が進めば日本の人口は30数年後には一億人を割り込むことは確実という予測や経済社会のグローバル化という現実を前にして日本も移民受け入れに舵をきることになるのかどうか、分からない。しかしいずれにしても今の移民受け入れ議論があまりに日本の都合だけで自分たちの利益のみを考える形で進められていることが気にかかる。日本はこれまで難民や亡命、単純労働者などの受け入れは拒否し、日本人労働者の確保が難しい建設業などの限られた職種にのみ「技能実習」という名目で外国人をいわば派遣労働者のように受け入れるという政策をとってきた。できればその上で高い専門性や技能を持つ人を移民として選別的に受け入れたいというのだ。余りに身勝手で都合のいい話ではないか。そういえば外国人は日本の「ガイジン」という言葉に強く差別的な感じを抱くという。日本人のもつ「ガイジン」意識が根本的に変わらない限り日本に移民問題を論議する資格はないように思われる。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

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1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。

Vol.16 明日ママ

 児童養護施設を舞台とした日本テレビのドラマが児童養護施設団体から人権侵害や差別を助長するとして番組中止などを求める強い抗議を受けている問題の波紋が広がっている。日本テレビは番組を最後まで見てもらえば誤解は解けるとして番組中止はないと言明しているものの、子供たちへ与える影響などへの配慮が十分でなかったことを謝罪し、一部内容の変更なども検討していることを関係団体に伝えたという。その一方で厚労省が影響調査に乗り出す意向を示すなどまだまだ予断を許さない状況だ。

 この騒動少々今までと違うのは視聴者は冷静なのに関係団体が強く抗議しているという図式だ。ネットなどの視聴者の声を拾ってみると「これまで知らなかった世界を知った」とか「養護施設やその児童たちの問題を考えるきっかけになった」と好意的な評価が多くみられる。施設団体が指摘する施設児童へ与える影響を心配する声もあるが、施設職員が差別や暴力をふるっているとの誤解を与えるとの指摘に強い関心を示しているようにはみえない。

 となると団体側の過剰反応なのだろうか。養護施設や養護児童の問題に詳しい人に聞いたところ「施設内での暴力事件や差別、虐待などの実態はドラマ以上に深刻でかつて施設内のそのような問題を改善するべく全国的に協議をする動きがあったが立ち消えになったことがあったという。「理由はわからないが問題が公になることを嫌った何らかの力があったようだ

 と語っている。今回の養護施設団体からの抗議がその延長線上のものかどうか分からない。しかしこのドラマが虎か猫かなんらかの尾を踏んでしまったのは間違いない。

 社会的時代性を持ったテーマを世に問う時、たとえドラマだとしても現実からの批判に耐えうる裏付けや覚悟、信念が必要だ。日テレにその覚悟があったのかどうかが問われるが、その一方で提供スポンサーが騒動のとばっちりを恐れて早々と番組内のCM放送をやめるという事態にまでなっていることが気になる。業界関係者の間ではこのような抗議やクレームで番組の内容変更や放送中止ということになれば、今後テレビメディアにおける自由な表現というものができなくなるだろうと危惧する声が高まっている。この問題処理の行方は今後のテレビメディア全体の行方をも左右しかねない。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。